日枝神社の総本山はどこ?歴史やご利益を幅広く調査!

日本全国に数多く存在する「日枝神社(ひえじんじゃ)」や「日吉神社(ひよしじんじゃ)」。これらは地域の人々に親しまれ、初詣や七五三などで多くの参拝客が訪れる神聖な場所です。特に東京都千代田区永田町にある日枝神社は、江戸三大祭りの一つである山王祭が行われることでも有名であり、ビジネスや政治の中心地を守る神社として絶大な知名度を誇っています。

しかし、この有名な東京の日枝神社が、全国にある日枝神社の「総本山」ではないことをご存知でしょうか。信仰の源流を辿ると、日本の宗教史や歴史的背景が深く関わっていることが見えてきます。

本記事では、日枝神社の総本山がどこにあるのか、どのような歴史を持っているのか、そして祀られている神様やご利益について、詳細な情報を網羅的に解説します。信仰のルーツを知ることで、神社参拝がより意義深いものになることでしょう。

日枝神社の総本山はどこにあるのか?

私たちが普段「日枝神社」と呼んでいる神社のルーツ、すなわち総本山は、滋賀県大津市坂本に鎮座する「日吉大社(ひよしたいしゃ)」です。全国に約3,800社あるといわれる日枝神社、日吉神社、山王神社の総本社であり、古くから「山王さん」の愛称で親しまれています。ここでは、総本山である日吉大社の位置づけや、東京の日枝神社との関係性、そして歴史的背景について詳しく解説します。

日吉大社と比叡山延暦寺の深い関係

日枝神社の総本山である日吉大社は、京都の北東、滋賀県側に位置する比叡山の麓に鎮座しています。この立地は、日本仏教の母山とも呼ばれる「比叡山延暦寺」と極めて密接な関係にあります。

日吉大社は、およそ2100年前の崇神天皇の時代に創祀されたと伝えられる古社ですが、歴史的に大きな転換点を迎えたのは、最澄が比叡山に延暦寺を開いた平安時代初期のことです。最澄は、比叡山の地主神(じしゅしん)である日吉大社の神々を、天台宗の守護神(護法神)として崇敬しました。これにより、神道と仏教が融合する「神仏習合」の信仰形態が確立され、「山王神道」という独自の教えが広まることになります。

つまり、日吉大社は単なる地域の神社ではなく、国家鎮護の寺院である延暦寺を守る重要な役割を担っていたのです。この歴史的背景が、日枝神社(日吉神社)が全国に広まる大きな要因となりました。

全国に広がる「山王信仰」と分霊

日枝神社の総本山である日吉大社の信仰は、「山王信仰(さんのうしんこう)」と呼ばれます。最澄が唐(中国)の天台山にある「国清寺」で学んだ際、その地の守護神が「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」であったことから、比叡山の神様も「山王」と呼ばれるようになったとされています。

平安時代以降、天台宗が全国に広まる過程で、比叡山の守護神である日吉大社の神様もまた、各地に勧請(かんじょう:神様の御分霊を別の場所に移して祀ること)されました。これが、日本全国に「日枝神社」や「日吉神社」が数多く存在する理由です。

それぞれの地域にある日枝神社は、この総本山から神様の御霊を分けていただいた神社であり、根底にある信仰や祀られている神様のルーツは、滋賀県の日吉大社に繋がっています。

東京の日枝神社と総本山の違い

多くの人が「日枝神社の総本山」と聞いてまず思い浮かべるのが、東京・永田町の日枝神社かもしれません。しかし、前述の通り、東京の日枝神社は総本山ではありません。では、どのような経緯で東京に鎮座することになったのでしょうか。

東京の日枝神社の歴史は、武蔵野を開拓した江戸氏が山王宮を祀ったことに始まるとされています。その後、太田道灌が江戸城を築城する際に、川越の山王社(現在の川越日枝神社)を勧請し、さらに徳川家康が江戸に入府した際、江戸城の鎮守(守り神)として崇敬したことで、その地位が確固たるものとなりました。

徳川将軍家の産土神(うぶすながみ)として厚い崇敬を受けたため、江戸における「山王信仰」の中心地となり、その規模や知名度は総本山に匹敵するものとなりましたが、系譜としては滋賀の日吉大社から分祀された流れの中にあります。

総本山ならではの建築様式「山王鳥居」

総本山である日吉大社や、各地の格式高い日枝神社で見られる特徴的な建築様式に「山王鳥居(さんのうとりい)」があります。これは通常の鳥居の上部に、三角形の破風(はふ)のような屋根が乗っている独特の形をしています。

この形は、神道と仏教の融合、すなわち「神仏習合」を表しているといわれています。上の山形の屋根は仏教の教え(胎蔵界・金剛界・蘇悉地界の三つ、あるいは仏・法・僧の三宝など諸説あり)を象徴し、下の鳥居は神道の神聖な入り口を表しています。

総本山である日吉大社の入り口に立つ山王鳥居は、その象徴的な存在です。東京の日枝神社を含め、この鳥居を持つ神社は、比叡山延暦寺および日吉大社との強い結びつきを示しており、建築物からもその歴史の深さを読み取ることができます。

日枝神社や総本山で祀られている神様とご利益

日枝神社の総本山である日吉大社、そして全国の日枝神社には、どのような神様が祀られ、どのようなご利益があるとされているのでしょうか。ここでは、主祭神や、日枝神社特有の「神使(神様の使い)」について、詳しく掘り下げていきます。

主祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)

日枝神社および総本山・日吉大社(東本宮)の主祭神として祀られているのは、「大山咋神(オオヤマクイノカミ)」です。『古事記』にも登場する神様で、須佐之男命(スサノオノミコト)の孫にあたります。

「クイ」という言葉は「杭」を意味し、山に杭を打つ、つまり山を所有し支配する神様であることを示しています。本来は比叡山の地主神であり、山全体を治める強力な力を持つ神様です。また、農耕や治水をつかさどる神としても古くから信仰されてきました。

さらに、大山咋神は「鏑矢(かぶらや)」に化身して玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)と結ばれたという神話から、縁結びや子宝の神様としても知られています。このように、山を守る力強い神としての側面と、生命を育む慈悲深い側面を併せ持っているのが特徴です。

神様の使い「神猿(マサル)」の存在

日枝神社や総本山を訪れると、狛犬ではなく「猿」の像が置かれていることに気づくでしょう。これは「神猿(まさる)」と呼ばれ、日枝神社の神様のお使い(神使)とされています。

比叡山には古くから多くの猿が生息しており、神様と人間の間を取り持つ存在として大切にされてきました。「まさる」という呼び名には、「魔が去る(魔除け)」や「勝る(勝利)」という語呂合わせの意味も込められており、非常に縁起が良いとされています。

総本山の日吉大社にある「西本宮」の楼門の軒下には、屋根を支える猿の彫刻があり、四隅のうち一匹だけが違う方向を向いているなど、興味深い見どころもあります。東京の日枝神社でも、本殿の両脇には夫婦の猿の像が安置されており、家内安全や夫婦円満の象徴として多くの参拝者に撫でられています。

多岐にわたるご利益の数々

日枝神社やその総本山への参拝によって得られるとされるご利益は、非常に多岐にわたります。

まず、主祭神である大山咋神の神話に基づく「縁結び」や「恋愛成就」は有名です。また、夫婦猿の像があることから「夫婦円満」「子授け」「安産」の祈願に訪れる人も後を絶ちません。

さらに、「魔が去る(神猿)」の信仰から、「厄除け」や「方位除け」のご利益も強力であるとされています。特に鬼門(北東)を守る神としての性格が強いため、新築や転居の際の守護神としても信仰されています。

そして、江戸城の鎮守であった東京の日枝神社が「出世の神様」として知られているように、ビジネス運や仕事運の上昇、商売繁盛のご利益も広く知られています。総本山である日吉大社もまた、国家鎮護の役割を担ってきた歴史から、大きな志を持つ人々を後押しする力があると言われています。

日枝神社の総本山に関するまとめ

日枝神社の総本山と特徴についてのまとめ

今回は日枝神社の総本山についてお伝えしました。以下に、今回の内容を要約します。

・日枝神社の総本山は滋賀県大津市坂本にある日吉大社である

・全国に約3,800社ある日枝神社や日吉神社の総本社として知られる

・日吉大社は比叡山の麓に位置し延暦寺とは密接な関係にある

・最澄が天台宗を開いた際日吉大社の神を護法神とした

・神道と仏教が融合した山王信仰が全国へ広まるきっかけとなった

・東京の日枝神社は総本山ではなく江戸城の鎮守として発展した神社である

・日吉大社や各地の日枝神社には特徴的な山王鳥居が見られる

・山王鳥居の上部にある三角形は神仏習合の象徴とされている

・主祭神は大山咋神であり山の支配や農耕をつかさどる

・神様の使いとして猿が大切にされ神猿(マサル)と呼ばれる

・神猿には魔が去るや勝るという意味が込められている

・ご利益は縁結びや安産に加えて厄除けや商売繁盛など多岐にわたる

・総本山は方除けや鬼門守護の神としても強い力を持つとされる

・歴史的背景を知ることで神社参拝の意義がより深まる

本記事では、身近な日枝神社のルーツである総本山「日吉大社」に焦点を当て、その歴史や信仰の広がりについて解説しました。普段訪れている神社の背景には、平安時代から続く壮大な歴史と、神仏習合という日本独自の精神文化が息づいています。機会があれば、ぜひ滋賀県の総本山へも足を運び、その荘厳な空気を感じてみてはいかがでしょうか。

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